【音楽界の金字塔】The Beatlesの変遷をたどる|作風の変化や音楽シーンに残した功績とは

20世紀を代表する世界的スター、「The Beatles(以下ビートルズ)」。

1962年のデビューからわずか8年という短い活動期間で、彼らは音楽シーンのみならず、社会体制や文化史に至るまで、様々な功績を残しました。

解散から約半世紀が経過した現在でも、彼らの音楽は色褪せることなく、多くの人々に愛され続けています。

今回は、そんな歴史に名を残したビートルズの8年間の変遷や、音楽シーンに残した功績について紐解いてみたいと思います。

The Beatlesのメンバープロフィール

John Lennon(ジョン・レノン)

生年月日 1940年10月9日
没年月日 1980年12月8日
出身地 イギリス・リヴァプール
担当 ボーカル・ギター

グループのリーダーであり、ポールとの共作を表すレノン=マッカートニー名義で、数々の名曲を生み出しました。

類稀なる音楽的才能はもとより、屈折したユーモアとウィットに富んだ掴みどころのない人物像の持ち主としても広く知られています。

ビートルズ解散後は、音楽活動に加え平和活動にも取り組んでいましたが、1980年、ファンを名乗る男性に銃殺され、40歳という若さでこの世を去りました。

Paul McCartney(ポール・マッカートニー)

生年月日 1942年6月18日
出身地 イギリス・リヴァプール
担当 ボーカル・ベース

ベース担当ですが、ギターにピアノ、ドラムも演奏するマルチプレイヤー。

キャッチーな音楽を紡ぎ出す傑出したメロディーメーカーで、言わずと知れた名曲『Let It Be』『Hey Jude』『Yesterday』なども彼の作曲によるものです。

特に初期は、ポールとジョン2人の相反する感性が調和することで、バンドを牽引していきました。

George Harrison(ジョージ・ハリスン)

生年月日 1943年2月25日
没年月日 2001年11月29日
出身地 イギリス・リヴァプール
担当 ギター・ボーカル

ビートルズの作曲担当というとジョンとポールが注目されがちですが、彼もまた『Here Comes The Sun』や『Something』などを手掛けた、偉大な作曲家のひとりです。

スピリチュアルな一面を持ち、楽曲に民族音楽のエッセンスを取り入れたり、インド楽器を用いたりするなど、その後のポピュラー音楽のサウンド作りおいても、大きな功績を残しました。

Ringo Starr(リンゴ・スター)

生年月日 1940年7月7日
出身地 イギリス・リヴァプール
担当 ドラム・ボーカル

本名はリチャード・スターキー。

他メンバー3人が次々と織り成す未知の音楽に、効果的なアレンジでグルーヴ感を授ける変幻自在のドラマーです。

腕利きのプレーヤーであることはもちろん、朗らかな人柄を持つ愛されキャラでもあります。時に綻びが生じるメンバー間の仲を取り持つなど、陰に陽に全体を支えた彼の姿から、人気バンドのドラマーとしての寛大さが伺えます。

The Beatlesの変遷と楽曲

ビートルズは、わずか8年という短い活動期間で目まぐるしい変化を遂げ、様々な作風に挑戦しました。

多くの傑作を生み出した彼らは一体、どのように音楽と対峙してきたのでしょうか。

その濃密な8年の軌跡を、楽曲と共に辿っていきたいと思います。

オリジナリティで心を掴んだ世界のアイドル

1962年10月5日、パーロフォンレーベルからシングル『Love Me Do』をリリースしてデビュー。

翌年リリースされた2ndシングル『Please Please Me』がUKチャート2位、同タイトルのアルバムが首位を獲得すると、その後もヒットを連発。

当時マネージャーを務めたブライアン・エプスタインによるイメージアップ戦略も功を奏し、ビートルズはたちまちイギリスのスターとなりました。

特に若い世代からの指示は凄まじく、“ビートルマニア”と呼ばれる熱狂的ファンが続出。

そのムーブメントはイギリスからヨーロッパ中へ、やがて大西洋を超えたアメリカへと広がっていきました。

斯くして世界のアイドルとなったビートルズは、その後3年以上、休むことなくコンサート活動を行うこととなります。

この時期のビートルズの音楽は、もともと彼ら自身が傾倒していたロックンロールが主体でありながら、ジャズやブルース、ポップスなどあらゆるジャンルを彷彿とさせる独自の趣が感じられます。

ロックの前身でもあるサビを高らかに歌い上げる構成や縦ノリのビート感、リスナーの予想を心地良く裏切るコード進行など、彼らの“万人受けするオリジナリティ”は、当時の若者を魅了しました。

2ndアルバムまではカバー曲が収録曲の半分程を占めてはいますが、それらもオリジナル曲同様、ビートルズの音楽として確立されています。

この時期を象徴する楽曲

Twist And Shout

1stアルバム『Please Please Me』に収録されたカバー曲。

当時風邪を引いていたジョンの喉は限界に達していましたが、叫ぶような歌声がかえってバイタリティを感じさせる、歴史に残る名カバーです。

I Want To Hold Your Hand

1963年11月にリリースされたシングル。

難航していたアメリカへの進出を決定づけた1曲であり、日本におけるデビューシングルでもあります。

Can’t Buy Me Love

1964年4月にリリースされたシングル。

イントロがなくサビから入るインパクトのある構成は、当時のプロデューサーであったジョージ・マーティンの提案によるものです。

アーティストとしての模索と成長

世界中から絶大な人気を誇り、順風満帆に見えたビートルズでしたが、次第に制約されていく現実とのギャップに不満を覚えるようになります。

過酷なツアースケジュールや不完全な会場設備、絶叫するばかりで音楽を聴こうとしない観客により、とりわけコンサート活動は彼らを煩わす要因となっていました。

同時に創作への探求心が高まっていたこともあり、ビートルズはコンサートからスタジオワークへと活動の主軸を移していくこととなります。この方向転換によって、彼らの音楽はより洗練されていきました。

当時流行していたフォークロックをベースに、シタールをはじめとする民族楽器を取り入れたり、クラシック音楽風のアレンジを施したりと、ユニークなアプローチで楽曲の世界観を表現するようになりました。

この頃から作曲技法が複雑化、歌詞のテーマもより内省的、哲学的なものへと深化していき、アーティストとしての新たなフェーズ進出を示唆しています。

この象徴を代表する楽曲

Help!

1965年7月にリリースされたシングル。

一聴して初期同様の溌溂とした楽曲に感じられますが、そこには多忙を極め自分を見失いかけていたジョンの切実なメッセージが込められています。

Norwegian Wood

1965年12月にリリースされたアルバム『Rubber Soul』に収録。

ポップミュージックで初めて大々的にシタールが使用されました。教会旋法と呼ばれる特殊なスケールを用いたメロディーと相まって、異国情緒溢れる楽曲となっています。

Michelle

同じく『Rubber Soul』に収録の楽曲。

クリシェと呼ばれるバスが半音階的に進行する手法が用いられており、その後ビートルズの楽曲で多用されるようになります。

マイナー調でありながら、歌い出しはメジャーコードの借用が見られたり、お洒落なナインスのコードが使われていたりと、作曲技巧もより複雑化していっているのがわかります。

サイケデリック音楽への傾倒

幻覚剤であるLSDの体験は、彼らの世界を大きく変える出来事でした。

この体験により、ビートルズはサイケデリック音楽に没入するようになります。

サウンド面においての追求は楽器の多様化に留まらず、開拓精神に満ちたエンジニアであるジェフ・エメリックの協力のもと、テープの逆再生やループ、録音方法の工夫や効果音の挿入など、レコーディング技術を駆使した実験的な試みが行われました。

当時は技術者のみの仕事であったレコーディングを先導し、妥協を許さないこの頃の4人にはもう、アイドルの面影は見当たりません。

ビートルズは、1966年8月29日、アメリカのキャンドルスティックパーク・スタジアムでの公演を最後に、コンサート活動を終了。

本格的にスタジオワークに専念するようになってから、制作に半年もの期間を費やした先鋭的なアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band(サージェント・ぺパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)』は、ポップミュージックの芸術的可能性を拡大する作品として高い評価を得ました。

この時期を象徴する楽曲

Tomorrow Never Knows

1966年8月にリリースされたアルバム『Revolver』に収録。

幻覚剤の使い方に関する著書『チベット死者の書サイケデリック・バージョン』から着想を得て作られた楽曲です。

インドの弦楽器であるタンブーラのドローン(メロディの変化に関係なく持続される音)やロータリースピーカー、テープの逆回転などのあらゆる方法を使ってチベット仏教の儀式の雰囲気が表現されています。

Strawberry Fields Forever

1967年2月にリリースされたシングル。

ジョンの幼少期の遊び場であった「Strawberry Field」という孤児院がモチーフとなった楽曲です。

ビートルズのサイケデリック期における最高傑作とも言われており、メロトロン独特の浮遊感のあるサウンドが幻想的な雰囲気を醸し出しています。

Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band

1967年6月にリリースされた同タイトルのコンセプトアルバムのオープニング曲。

ビートルズがSgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Bandという架空のバンドになりきって演奏しています。

ソロ志向の強まりとバンドの真骨頂

コンサート活動終了後もビートルズの勢いは衰えることなく、誰もが彼らの次回作の発売を心待ちにしていました。

一方で、レコーディング技術の進歩に伴う個別作業の増加や、それぞれの音楽性の差異、メンバー同士の軋轢などによって、バンドは次第に均衡を失い始めます。

中でも、初期からビートルズを支え続けてきたマネージャーブライアンの死は、彼らの前途を揺るがす衝撃的な出来事でした。

絶対的なコンパスを失った4人は、必死に方向性を模索し、衝突しながらも創作活動を続けることとなります。

この頃からビートルズの作品におけるサイケデリック音楽の傾向は弱まり、比較的シンプルなサウンドへと回帰しています。

数々の先鋭的な試みを経たことで、滾るイマジネーションを惜しみなく注いでいた飽和状態から、アプローチの引き算を行うようになったとも言えるのかもしれません。

メンバーの不和やソロ志向の強まりによって、統一性に欠ける時期と言われることもありますが、裏を返せば各々が思うままに音楽を追求し、真価を見せた時期でもあります。

結果的にビートルズは解散へと至ってしまいますが、最後にレコーディングが行われたアルバム『Abbey Road』は、4人の個性が見事に融和した傑作となりました。

この時期を象徴する楽曲

Julia

1968年11月にリリースされたアルバム『The Beatles(通称:ホワイトアルバム)に収録。

ジョンが17歳の時に亡くなった母ジュリアを題材にした楽曲です。アコースティックギターとボーカルのみで構成されています。

Get Back

1969年4月にリリースされたシングル。

次第に分裂していくバンド内の関係を修復しようと、ポールの提案で始まった1ヶ月間のゲットバックセッションの中で作られた楽曲。

動画はビートルズによって設立されたアップルコア本社の屋上で行われた、ゲリラライブでのパフォーマンスです。

Something

1969年9月にリリースされたアルバム『Abbey Road』に収録、及び翌月10月にはA面でシングルカットされました。

ジョージ・ハリスンが作詞作曲を行った楽曲で、メンバーから絶賛され、アメリカを代表する楽曲チャートBillboard Hot 100においても第1位を獲得した傑作です。

The Beatlesが音楽界に残した功績

自作自演の主流化

今でこそアーティストがソングライティングを行うのは当たり前となりましたが、当時は作詞、作曲、演奏は分業するのが一般的でした。

そんな中、メンバー全員で曲を書き、全員がリードボーカルをとるビートルズは、まさに異彩のミュージシャン。

特に階級社会のイギリスにおいて、独自のメッセージ性を持った楽曲を発信する労働者階級出身の彼らは、庶民の代弁者のような存在であったと言えます。

ビートルズのブレイク以降、自作自演をするミュージシャンが増え、新しい流れが出来上がっていきました。

コンセプトアルバムの制作

1967年にリリースされたアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、従来の関連性を持たない単一曲を詰め込むスタイルに対して、アートワークを含むアルバム全体で一つの作品として成立させた、初のコンセプトアルバムです。

自分たちではない架空のバンドのショーという設定のもと、テーマ曲に始まりアンコールに終わるという構成となっています。

このように複数の楽曲やアートワークに関連性を持たせて世界観を構築する手法は、他のアーティストの作品にも見られるようになり、ポップミュージックを新たな領域へと導きました。

まとめ

以上、ビートルズの変遷や、音楽シーンに残した功績についてご紹介いたしました。

あらゆる葛藤の中で、自分たちの音楽を模索し続けたビートルズ。

彼らの劇的なストーリーの全てを語り尽くすことはできませんが、バックグラウンドを踏まえることで、これまでとは違った視点で音楽を味わうことができるかもしれません。

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この記事を書いた人
Iori

音楽大学作曲コースを卒業。
在学中より音楽教室にて講師として勤務し、ピアノ・リトミック指導に加え、スペシャルニーズの生徒さんのサポート、教材開発などの経験を積む。
現在は作曲・編曲活動の傍ら、これまでの経験を生かし主に音楽や教育を題材にwebライターとしても活動中。

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